1話目

 生きとし生けるものにとってすべからく首は急所の一つだ。が、Sub性の人間にとって首は己の性的な弱点の極みでもある。
 誰かの所有になること。抗いがたいその喜びに身を委ねる性であることのしるしを刻む場所。
 ―――アキ君のそこに触れるのは、どんな人になるのかな。


◆ ◆ ◆

「―――じゃあ、簡単な練習からにしようか。こっち見て、早川君。……Kneel」
 すとんと膝が崩れる。脳の中に生ぬるい水が浸透してきて思考を揺らす。何かを反芻するいとまもないまま、アキは片膝を立てて跪き、中世の騎士のように従順な仕草で顔を伏せた。それから緩やかに顎をあげて相手を見る。
 視界の中に入るものはどれも美しい。暮れゆく鮮やかな夕日、整然とした本棚、磨かれた調度品。なのにもうアキの両目は、唯一己を支配する相手の姿しか捉えられない。
 妖艶な弧をえがくうすいピンクの唇で、マキマが一つ頷いた。
「Good Boy。いい子だね、早川君」
 途端、体中をじんわりと満たす喜びに胸が締め付けられて、アキは浅い息をこぼした。
 欲しかったものを手に入れた充足感。のぞみが叶った達成感。全てをさらけだした解放感。どれとも絶妙に違う感情だ。快感と体温の上昇と飢え。欲しい。もっと。満たされたい。それが怖い。
 呻き声が漏れそうになってアキの目が泳いだ。執務室というノーブルな空間にそぐわぬ淫靡なにおいが立ちのぼる。
 少しばかり身を屈めて惜しげなくその美貌を寄せながら、マキマは蕩けかかったアキの青い目の中を覗き込んだ。そのまま、パチンと指を鳴らす。

「―――はっ……ハ、ァ……」
「大丈夫? 早川くん」

 小さな顎に手を当てて、マキマが気づかわしく尋ねる。その声が通常通りの「音」として捉えられることに内心安堵しながら、アキは絨毯に突っ伏しかけていた身を起こした。骨抜きになっていた筋肉一つ一つに気合を入れる。
「だいじょ、ぶです」
 理性を取り戻してしまうと、直前までのグズグズな自分を思い出すのが嫌でたまらない。いっそ一つの性しか知らない体であればこの惨めさとも無縁だろうに、アキはいわゆる「性を渡る性」という稀有な能力をもって生まれた[Swich]だった。
 ダイナミクスといわれる力量関係によって振り分けられた第二性の分類上、支配級にあたる[Dom]と庇護対象である[Sub]。それら二つの性を渡り歩く[Swich]という稀覯種。圧倒的多数が支配者級の能力を持つ悪魔とDom性として対等に渡り合い、且つそれらと効率よく契約関係を結ぶSub性を自身で切り替えられる早川アキは、デビルハンターとして天賦の才をもつ男と言っても過言ではなかった。
「すみません、Sub側に落ちる感覚、久しぶりだったので」
 膝を払ってスーツのよれを直し、立ち上がる。背筋を伸ばしたアキは、冷や汗をかいたシャツの下の気持ち悪さを懸命に無視した。
 言葉通り、最後にSub側を味わったのは呪いの悪魔との契約時以来だった。加えて、マキマのグレアは華奢な外見に反して恐ろしく強い。もう少しで嘔吐して醜態をさらすところだった。
 その彼女はもう執務室の椅子に戻っていて、いつものように柔らかく微笑んでいる。
「普段はDom性のまま悪魔が使役できるようになってたからね。本当にすごいよ」
「ありがとうございます。精進します」
「うん。それに安心した。やっぱり早川くんに任せようかな」
「……え?」

「デンジ君、入っておいで」
 がちゃりと背後の扉が開いた。デンジ? 誰だそれは、と思ったが、マキマを前にして無遠慮に後ろを振り向いたりはできない。足音だけで粗野さがうかがえる人物の来室を、アキは黙って耐えた。
「制服ちゃんと着れた? あらら、ネクタイ分かんなかったね」
「すんません」
 ほどなくして傍らに並んだのは、金髪のあちこち飛び跳ねている猫背の少年だった。
 お仕着せの制服を取り合えず身にまとい、黒いネクタイを首に引っ掛けたまま胡散臭そうな目でアキを見上げている。不躾な視線を浴びながら、アキは斜め上の天井に目を逸らした。
「紹介するね、デンジ君。彼の名前は早川アキ。デンジ君より三年先輩」
 アキは黙したまま、後ろ手で握った両手拳に力を込めていた。つまりマキマの台詞から見た目通り隣の少年は自分より年下だと判明したわけだが、そんなことは正直、アキの頭には何も入ってこなかった。
 つま先に力を込めて踏ん張って、膝が震えないように立つ。気合を入れてそうしなければ今すぐ倒れ込みそうなほど、少年の全身からは加減のない支配級のフェロモンが溢れ零れていた。
 いくら今さっきまでSub側に落ちていたからといって、生粋のSwichであるアキはもう間違いなくDom性を取り戻している。庇護の余韻を引きずっているわけではない。はずなのに。
 引っ込んだはずの冷や汗が再びアキの背中をじんわりと濡らす。喉が鳴る。
 このアホヅラ―――悪魔級のDom性。

「早川君はもう多分気付いていると思うけど……デンジ君、早川君が今日から君のパートナーをしてくれます。仲良くしてね」

「「―――は、はああああ??」」

 生きている人間は誰も逆らえない魅惑的な声で、マキマはにっこりと微笑んだ。


◆ ◆ ◆



 契約書をしたためる必要がある。頭の痛くなるような様式だ。
 好きなこと、苦手なこと。NG行為。互いを律するためのセーフワード。欲求を満たすリワード。
「―――俺はぁ、食べることと寝ること、あと……」
「Domのことは聞いてもしょうがないだろ」
「……あっそォ……」
 少年はあぐらをかいて生返事をしながら、手づかみしていたパンを口の中に全部詰め込んだ。がさつな動きだったので、でろでろに塗りたくったジャムはかなりの量、皿と床に零れた。アキの眉間に深い皺が寄る。
 人の家に転がり込んでくるなり腹が減ったと食い物を要求し、仕方なく朝食の残りのパンを放り投げた。少年……デンジはそこにありったけのジャムを乗せて、胸焼けしそうな昼食に食らいついている。
 こんな得体のしれないやつとパートナー契約を結ぶ旨をしたためる手元の用紙を、アキは今すぐびりびりに破り捨ててしまいたかった。公務員なんて所詮、国家の狗だ。クソ。
 力の入ったペン先がインクを滲ませて黒い染みができているのを、アキは俯いたまま睨みつけた。不穏な空気を無視して、デンジは呑気に問いかけてくる。
「なぁなぁ。センパイよぉ。そのDomとSubってのよく分かんねえんだけど、結局俺ぁどうなっちまったわけ?」
「はあ? おまえ義務教育受けてないのか」
「受けてねーよ」
「一斉検査は? 中学校の一斉検査で第二性を知る……」
「行ってねぇ。俺ぁ男であんたも男、マキマさんは女。性別ってそれしか知らねえな」
「………」
 悪びれも恥じらいもなく肯首したデンジをまじまじと見返して、アキは言葉を探しあぐねた。
 アル中の師曰く、デビルハンターになる人間は、最悪な過去か最低な嗜好かその両方を持っている。指の隙間についたジャムをしつこく啜っている少年は悪魔になれるというが、どういう経緯でそうなったのかアキは知らなかった。無論、知りたいとも思わない。どうせ糞みたいな理由に決まっている。
 そしてどんな理由や経緯があれど、ただ一つ言えることは、あまりにも無知なパートナーと契約すれば双方が深刻なダメージを受け、ともに自滅しかねないということだった。
「分かった。説明してやるから、とりあえず手、洗って来い」
「面倒くせー」
「洗って来いって」
「ああ?」
 目つきの悪いデンジがひときわ機嫌を損ねた表情で、アキを睨み返した。まともに視線がぶつかり合って、アキはその瞬間、ハンマーで後頭部を殴り倒されたような衝撃におののいた。
「っ…!!?」
 目の裏がチカチカして、酔い過ぎた夜の悪夢みたいに熱くて寒い濁流が、洪水になって全身の血を巡っていく。どっと冷や汗が噴き出して、アキの体がぐらんと前に揺れた。
 手にしていたペンがこぼれ落ち、フローリングを勢いよく転がっていく。
「…ンだよ、甘くてもったいねえじゃ……―――ん?」
 一歩たりとも動いていないのに、胸元を縛り上げられたように呼吸が勝手に浅くなっていく。
 ハッ、ハッ、と短い呼吸が漏れて、アキは嘔吐寸前の真っ青な顔のまま項垂れた。強烈な飢えと体中のむずがゆさに似た焦燥感。縋りたい。満たされたい。
 おかしい。まだ“髪も解いていないのに”、勝手に[Sub]に落ちている。
「ハ…っ…うゔ、…ぇ、あっ……っ」
 自分がどうしてしまったのか、アキにもさっぱり分からない。
 二性を併せ持つアキは、その入れ替わりのタイミングを任意でコントロールできる。それも無意識下で逆転しないよう、わざと「髪を解く/縛る」仕草と結び付けて厳しく制御する訓練も積んできた。
 急に落ちる、なんてことはあり得ないのに。
「ちょっ、おい、あれ、センパイ、あれぇ?」
 明らかに様子の変わったアキの呼吸と、デンジの焦った声が重なった。
 今の今まで、あからさまにこちらを見下した嫌な態度の男だったとはいえ、訳も分からず死にそうな顔でゲロをぶちまけそうになっているのを目の当たりにすれば、だれだって動揺するし、恐怖も感じる。
 慌てて身を乗り出したデンジがテーブルの上にぐんと体重をかけたので、皿がひっくり返って床を派手に汚した。
「あ、ヤベ……じゃなくて、なあ、どうしたんだよ、急にすげえ汗出てんじゃん…?」
 ぽたぽたと額から垂れた汗を拭うこともできず、極寒の地で置き去りにされたかのようにアキの体は小刻みに震えている。
 うすく開いたアキの唇から、ツぅ、と透明な涎が零れているのを垣間見た瞬間、デンジの目はその光景に釘付けになった。
 下腹部から背骨にかけて、繊細な指先で直になぞられたような刺激が走っていく。もう少しで暴発しそうなほど強烈な感覚。
(んだこれ…!)
 引き攣ったデンジが思わず背をのけ反らせたのと真逆で、ついにアキの体が骨を抜かれたように前へと倒れた。
 このままだとテーブルに顔面からダイブする、と判断したデンジはもうなりふり構わず、勢いつけて両手を伸ばし、アキの体を支えた。
「あぶね、ぇっ、【待て】って」
「っ……!!」
 デンジにしてみればとびきりの善行だった。他意はない。何なら今放った言葉はもう既に忘れている。
 しかしその言葉が耳から脳へと届いた瞬間、アキは浅い息を吸い込んだまま、硬直した。
 次いで、ぞわりと。苦痛が渦まく胸の中へ一滴、違うものが甘やかに溶けて弾けたのを感じ取る。
 痺れるような幸福感。得も言われぬ快楽のふち。求めていた充足の蜜色が脳髄をグズグズに溶かす。
「ァ…、…で、デンジ、…」
「お、おあ…? え?」
 デンジの息が耳の横をくすぐり、見えない柔らかな感触がうなじを撫でていく。剥き出しのそこに今すぐ触れてほしいと身も世もなくねだりそうな瞬間を乗り越えて、アキはようよう言葉を絞り出した。
「しょるい、な、か…見ろ、……4p、んと、こ」
 震えるアキの指がばらまかれた書類の束を指すのを目で追って、デンジは片手でアキの肩を何とか支えたまま指示された用紙を何枚かめくった。
 難解な漢字と英語だらけでほとんど読めないが、それを見越していたのか誰かが几帳面にふり仮名を振っていた。枠内の太字をデンジは声に出して読み上げた。
「こまんど」
 熱の籠った息を吐いて、こくこくとアキが頷いた。
 さっきまで青白い紙のような頬をしていたアキは、俯いた耳たぶの先まで色付けたように赤く火照っていた。
「俺にこれしろってことぉ?」
「………は、やく、」
「〜〜〜〜っ……」
 懇願するアキの声に、喃語めいたデンジの呟きが混ざった。
 がしがしと頭を掻きむしって、えっとぉ、と咳払いをする少年の声音は少しだけ上擦っている。
 センパイの名前は、なんて勿体ぶった独り言でもう一度書類をめくり、照れているのか躊躇っているのか進まないデンジを見上げて、アキは気づけばほとんど無意識にその手首を掴んでいた。びくっとデンジの体がはねる。アキの中にもその電流が伝播して、頭の中がショートする。

 わずかに腰を浮かせ、縋るように見る。目が合う。喉を焼けるような唾液が伝い落ちる。

「アキ、―――Kneel」
 

 悪魔と融合したデンジが生まれて初めて他者に与えた【命令】は、濃厚なジャムを全部どろどろに溶かして煮詰めた最強の昼食より、甘かった。


◆ ◆ ◆




 より地に近い姿勢を求めて両膝を開き、伏せるように頭を下げている人間を見ていると、ヒトも動物なんだなと理解する。
「Stay」
 低い声は夜のしじまをくゆらす煙のよう。尋問室の隅々まで漂って沈んでいく。
 半端に色の抜けた茶髪の男が一人、肩を上下に動かしながら冷たい床に這いつくばっていた。天窓から注ぐ日差しは男の背中を罰のように焼いていた。
「Stay、まだだ」
 重ねられた命令を受けて、男の浅く熱い呼吸が窓越しにさえ伝わってくる。
 デンジが顔を近づけると、自分の吐息でマジックミラー仕様に施されたガラスが白く曇った。
 ―――興奮してんのかな、俺。見てろって言われたから覗き見してるけど、なんか変な気分になっちまってる。
「Look、……そうだ、ゆっくり」
 のろのろと身を起こした男の横顔には、執拗に殴られた痕がある。瞼まで腫れきった頬をみるに、歯も何本か折れているだろう。むしろ残っている歯があるかどうか。鼻も曲がっている。相当の痛みがあるはずだ。
 だが、男の眼差しに苦しみめいた色は一滴だって見当たらなかった。あるのは燃えるような焦燥と陶酔。
 濁った目が、相手を求めている。メシアの足元にぬかづく愚者のようにこいねがっている。
 早川アキのくちびるを見ている。
「順を追って話せ。大丈夫だ、ここには俺しかいない」
 不意に和らいだアキの声を浴びて、男の呼吸が歓喜に震えた。
 デンジは親指の爪を噛んだ。
 うなじを晒したアキの青く深い両目が、支配級の匂いたつ力で見えぬ手綱を引いている。
 あれがアイツのDomの貌―――。
「洗いざらいだ、Speak」
 見知らぬ男の懺悔など聞く気にもならず、デンジは待機室の扉を大きく開け放って外へ出た。


 ダイナミクスにはレベルがある。
 それは小学校で保健体育の学習が始まる三年生の必修事項であり、およそ親子の正常なスキンシップがある家庭においてはそれよりずっと早く、第二性の存在とともに得る社会常識である。
 そもそも、全ての人間はDomかSubか、あるいは可変という特異性をもつSwitchというダイナミクスを有して生まれるわけだが、これらの第二性を日常生活を送る上で意識している割合は全人口の15%程度、明確な弊害と感じている割合に至っては5%にも満たないと言われている。
 とどのつまり殆どの人間にとってのダイナミクスとは、自分の星座だとか誕生石のような取るに足らない自己情報でしかない。

「厄介なのはこの5%だ。レベル7以上に相当するダイナミクス保有者は、抑制剤を常用する。暴走したら周囲に影響を与えるだけじゃない、本人も苦しむことになる」
「早パイは? どんくらい」
「俺はSwitchだから少し話が違う……Dom性だけでいえばレベルは6だ」
 へぇ、と適当な相槌をうったデンジは、窓越しに見下ろす街中のクリスマスイルミネーションもまるで無視して、メロンソーダを勢いよく啜っている。
 冬限定の肉厚コロッケを挟んだハンバーガーを頬張りながら、アキは出際に医療班と交わした会話を反芻していた。


『保護直後の簡易測定ですので暫定ではありますが、デンジ君のダイナミクス値はレベル10を完全に振り切っていました』
『抑制剤の効果が薄らぐ頻度やピークについて取り急ぎ予測値を立ててみましたが、お役に立てるかどうか……』
『原始的な話ですが、やはり一番は欲求の解消です。早川さんもご存知でしょうが、ダイナミクスのレベルが高い患者ほどコマンドによって満たされる度合いも大きい。パートナーとの良質な関係に勝るものは有り得ないのですから……』


 一応礼を言って部屋を辞したものの、アキの心はすっかり曇っていた。
 デンジの規格外のDom性は融合した悪魔に由来するらしいが、どうやら一旦派手に暴走したせいか、今のところ抑制剤の効果は安定している。向かい合って食事をしていても、隣の部屋で寝ていても、特に気になる様子はない。本人も至って元気だ。
 が、医療班の言う通り、デンジの肉体に起きた二次性徴以降のDomの発露はあまりにレアケースだった。次に暴走したら……今度は何が起きるか分からない。

(だからって、一週間のカンヅメ生活は長い……)

 アキの重苦しいため息を、満腹のサインだと思ったのか、デンジが顔を上げて片手を差し出した。
「早パイ、いらねぇなら食ってやろうか」
「………やらねえよ」

 大口で残りをねじこむと、せっかくの特製ソースがかなりの量はみ出して、指先を盛大に汚した。全く、ろくなことにならない。
 紙ナプキンを上品に折り畳んで拭ったりせず、アキは小指の先と甲まで回ったソースをぺろりと舐めとった。
 窓の外はあんなに陽気な冬を満喫しているというのに……。

 食ったら行くぞ、と告げたアキは、デンジがすっかり飲み干したはずのストローを懲りもせず囓っているのを見て閉口した。
 このお世辞にも行儀の良くない子どもと、これから一週間、ひたすら監禁生活である。
 目的の第一は、デンジのDom性の発露における揺らぎ(周期)を見極めること。 
 第二は、暴走を抑え込みおだやかな負荷となるコマンドのレベルと種類を正確に見極めること。
 第三は、――――。

『早川君には急にデンジ君のパートナー契約を依頼したけれど、これはあくまでも上司命令としての暫定契約です。どうしてもうまく行かなければ、新しいパートナーを見つけてあげる用意をしないと。彼にはそれが必要だから。だから、見極めてきてくれる?』

 パートナーを担うに値する相手かどうか。

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